先日、久しぶりにお世話になったカメラ屋さんへ伺った話を書いた。
今日はその時に話した内容について少し触れてみる。
#私は自前のノートパソコンを広げて、今まで撮影した野鳥の写真をいっぱい見せている。
最近の写真はコントラストの高い写真が増えた。昔だと考えられないコントラストだ。これは液晶テレビや放送局も悪い。あり得ない色を作り上げている。まだブラウン管の方が自然だ。
山陰は山陰の色がある。(私の写真に限らず)どの写真も地中海で撮影したような色だ。
作品を目指すならば、何を生かすか、そこに自分のオリジナルをどのように取り入れて創るのかを考えないといけない。
#あるモノトーンの写真集を私に見せながら、その人は言った。
「これはどう?芯があるところと柔らかいところ、凄いでしょ。これはね、牛の○○○と墨でスポッティングをした写真。多くの材料で試した結果だそうだよ」
レンズの前玉を外して撮影するとか、昔は何でもやっていた。今は誰も試さなくなった。買ってきてそのまま撮影。そして画像編集ソフトで同じ様に編集する。
私は確かにそうだと思った。昔は現像しないと結果が分からなかった。多くをイメージして撮影していた。だから、こうするとどうなるか、そこには楽しい世界が広がった。そして実際に試していた。今ではデジタルカメラの液晶にその場で表示される。イメージする努力はいらない。
昔は印画紙に焼き付けた後で大切な写真はスポッティングをした。まず、埃などを消す。被写体が人ならば目の周りなどに黒と白でスポッティングをして美人や美男にした。まさに一枚一枚が手作りだ。昭和初期の写真が残っているようならば、虫眼鏡を使ってスポッティングを探してみると面白いと思う。
フォトコンテストを意識すると、入選する写真と自分の撮ったままの写真を比べる。あからさまに自分の写真はコントラストが低い。だから画像編集ソフトでコントラストを上げて彩色で楽しむ写真とした。でもこれは表面的な鮮やかさで、また誰もができることで、そこにオリジナル性はない。
フォトコンテストを抜きで写真を作品として考えるならば、真似のできない自分なりのアプローチを確立しないといけない。しかし、それはデジタルでは可能なのだろうかと悩んでしまう。
フィルム時代よりも気軽に撮影できるデジタルカメラ。高性能化により、昔では撮影できない暗がりや超望遠での撮影、そして高速連写が可能となっている。立派な道具に任せて撮っていると、そこにオリジナル性を見出すのは難しいかも知れない。でも、メッセージを乗せることはできると思う。しかし、作品ってそこまで追求するのが作品なんだと気がつかされる。
これらは押しつけるのではなくて、そうなんだと知って自分がどう考えるかが重要だけど、この話を聞いて写真の山がまた高くなってしまった。私の写真に対する思いは永遠に結論は出そうにない。
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