写真にオリジナル。それは無理だ。一部のプロでしか成し得ない芸術の世界。この一週間、リアルな世界でカメラ屋さんへ行ってから思いにふける。
自分を表現してオリジナルな世界を作り上げる。それはとても大変だ。きっと私の想像を越えた世界。
そう思いながら、インターネットに点在する人の写真を見る。そして図書館から借りた写真集を見てみる。やはり写真集にある写真はひと味違う。当然、インターネットに点在する写真も素晴らしいものはあるが何かが違う。
その違いの多くはメッセージなのかと思い始める。
多くの写真は「綺麗」で終わる。または「タイミングが良かった」で終わる。その先が見つからない。それは写真の楽しみ方の一つかも知れないが、写真を見る側からすればもう少し語って欲しいと思う。
素晴らしい写真集は一枚の写真で多くを語りかけてくる。そう、メッセージを感じさせる。それは撮影者と被写体のそれぞれにメッセージがあって、見る側に理解する力があって初めて語りかけてくる。
オリジナルは継続することできっと作っていく世界。たぶん趣味の範疇では無理だ。でも、一枚一枚の写真にメッセージを込めるのは趣味の範疇でできそう。もちろん簡単ではないが、趣味には時間の制約がない。時間をかけて作り込んでいくことができるかも知れない。
今は手軽に写真や映像が目に飛び込んで来る時代。その多くは見る側に理解力を求めない写真や映像だ。それに慣れてしまわないように注意しないといけない。
そう思って自分の写真を見ると、そんな事を言える立場でないことに気がつく。さて、どうしたモノか。これから撮る写真はメッセージを込めて撮影するように心がけるとしよう。それは努力目標だ(^o^)
2010年3月6日土曜日
作り手と受け手
昔お世話になったカメラ屋さんへ行ってから、もう少し写真について考えるようになった。
今までは好きなレンズで「楽しく」撮影をするところが楽しみであり、撮った写真を人に見せる機会はあまりなかった。まあ、撮影スタイルを楽しんでいたと言うべきか。別に趣味で撮影しているワケだから、それで何ら問題はなかった。
ブログに写真をアップすると人に撮った写真を見てもらう機会ができる。逆に人の撮った写真も見る機会ができる。徐々に写真に対して向き合うようになってきた。
写真は絵画と違って、全てをカメラと言う道具でその時を写し撮る。だからその場にいて、同じカメラとレンズを使えば同じ写真が撮れるハズだ。だから私は写真にはオリジナル性は難しいと思っていた。
だから、消費者としてレンズを眺めているのが好きだった。レンズのコーティングの色、レンズの微妙な湾曲、そこからイメージするレンズの味。実際に撮影をして、そのイメージと写し出される写真が一致すると、それはとても楽しい世界。
フォトコンテストで書いてもらった寸評を読んだり、カメラ屋さんへ行ってカメラ談義をすると改めて意識させられるオリジナル性。
それは前から気がついていたけれど、作り手と受け手、制作者と消費者、メーカーとユーザーの図式の中では、受け手側が作り手側になることはあり得ない。
でも、良くも悪くも人から評価され始めると、自分では意識しないうちに作り手の立場にいることに気がつく。これはパソコンでプログラムを作って人から評価をもらい始めた時と同じだ。
写真に限らず、受け手から作り手への境界線。それは楽しいと感じた時に既に始まっていたかも知れない。
今はインターネットを使って情報発信が容易い。楽しいことを発信することで評価をもらい、その評価をもらって工夫を惜しまないことで、昔よりも自然に受け手から作り手へ立場が変わってしまいそうだ。
楽しいモノが見つかった時は躊躇うことなく、情報発信を仕掛けてみるが良い。そこには一日中その楽しいモノと向き合える「作り手」の世界がきっと待っているかも。
今までは好きなレンズで「楽しく」撮影をするところが楽しみであり、撮った写真を人に見せる機会はあまりなかった。まあ、撮影スタイルを楽しんでいたと言うべきか。別に趣味で撮影しているワケだから、それで何ら問題はなかった。
ブログに写真をアップすると人に撮った写真を見てもらう機会ができる。逆に人の撮った写真も見る機会ができる。徐々に写真に対して向き合うようになってきた。
写真は絵画と違って、全てをカメラと言う道具でその時を写し撮る。だからその場にいて、同じカメラとレンズを使えば同じ写真が撮れるハズだ。だから私は写真にはオリジナル性は難しいと思っていた。
だから、消費者としてレンズを眺めているのが好きだった。レンズのコーティングの色、レンズの微妙な湾曲、そこからイメージするレンズの味。実際に撮影をして、そのイメージと写し出される写真が一致すると、それはとても楽しい世界。
フォトコンテストで書いてもらった寸評を読んだり、カメラ屋さんへ行ってカメラ談義をすると改めて意識させられるオリジナル性。
それは前から気がついていたけれど、作り手と受け手、制作者と消費者、メーカーとユーザーの図式の中では、受け手側が作り手側になることはあり得ない。
でも、良くも悪くも人から評価され始めると、自分では意識しないうちに作り手の立場にいることに気がつく。これはパソコンでプログラムを作って人から評価をもらい始めた時と同じだ。
写真に限らず、受け手から作り手への境界線。それは楽しいと感じた時に既に始まっていたかも知れない。
今はインターネットを使って情報発信が容易い。楽しいことを発信することで評価をもらい、その評価をもらって工夫を惜しまないことで、昔よりも自然に受け手から作り手へ立場が変わってしまいそうだ。
楽しいモノが見つかった時は躊躇うことなく、情報発信を仕掛けてみるが良い。そこには一日中その楽しいモノと向き合える「作り手」の世界がきっと待っているかも。
2010年3月5日金曜日
お店を作ろう
私は職場や自宅にお店を作っても面白いのではないかと考えるようになりました。
先日のブログでお店の価値について書きましたが、情報の交流の場としてお店はとても有効だと感じています。会社にお店、自宅にお店。ちょっと不思議だと思えるかも知れません。もちろん、一日中店番をする必要はありません。会社などを越えて気軽に人が集まることができる場所があると良いなという提案です。
会社や自宅のちょっとしたスペースに、人が集まって自由に論じられる空間。
実はありそうでない空間だと思います。形式張った応接室などではなく、お店に入る感覚で立ち寄れる空間。そして他との関係を区切って自由に話ができる。できれば商品といかないまでも、話が盛り上がるためのモノが置いてあるとなお良いです。
子供の時、友達の家に遊びに行く感覚でビジネスの話ができると、もっと自由な発想が生まれてくるのではないでしょうか。
そんな空間の実現のためには、なるべくお金をかけないで実現ができればと思います。お金をかけるとかけた分だけ期待してしまう。そこには自由な発想が生まれない気がします。
場を作る方も、寄ってみる方も、あまり結果には期待しないで気軽に寄れる。そんなお店みたいな空間で未来を創造すると楽しいと思いました。
もし、私がそんなお店を作るとすれば何をならべるでしょうか。あなたなら何をならべますか?
先日のブログでお店の価値について書きましたが、情報の交流の場としてお店はとても有効だと感じています。会社にお店、自宅にお店。ちょっと不思議だと思えるかも知れません。もちろん、一日中店番をする必要はありません。会社などを越えて気軽に人が集まることができる場所があると良いなという提案です。
会社や自宅のちょっとしたスペースに、人が集まって自由に論じられる空間。
実はありそうでない空間だと思います。形式張った応接室などではなく、お店に入る感覚で立ち寄れる空間。そして他との関係を区切って自由に話ができる。できれば商品といかないまでも、話が盛り上がるためのモノが置いてあるとなお良いです。
子供の時、友達の家に遊びに行く感覚でビジネスの話ができると、もっと自由な発想が生まれてくるのではないでしょうか。
そんな空間の実現のためには、なるべくお金をかけないで実現ができればと思います。お金をかけるとかけた分だけ期待してしまう。そこには自由な発想が生まれない気がします。
場を作る方も、寄ってみる方も、あまり結果には期待しないで気軽に寄れる。そんなお店みたいな空間で未来を創造すると楽しいと思いました。
もし、私がそんなお店を作るとすれば何をならべるでしょうか。あなたなら何をならべますか?
2010年3月4日木曜日
フォトコンで一席を取ったので2
先日、久しぶりにお世話になったカメラ屋さんへ伺った話を書いた。
今日はその時に話した内容について少し触れてみる。
#私は自前のノートパソコンを広げて、今まで撮影した野鳥の写真をいっぱい見せている。
最近の写真はコントラストの高い写真が増えた。昔だと考えられないコントラストだ。これは液晶テレビや放送局も悪い。あり得ない色を作り上げている。まだブラウン管の方が自然だ。
山陰は山陰の色がある。(私の写真に限らず)どの写真も地中海で撮影したような色だ。
作品を目指すならば、何を生かすか、そこに自分のオリジナルをどのように取り入れて創るのかを考えないといけない。
#あるモノトーンの写真集を私に見せながら、その人は言った。
「これはどう?芯があるところと柔らかいところ、凄いでしょ。これはね、牛の○○○と墨でスポッティングをした写真。多くの材料で試した結果だそうだよ」
レンズの前玉を外して撮影するとか、昔は何でもやっていた。今は誰も試さなくなった。買ってきてそのまま撮影。そして画像編集ソフトで同じ様に編集する。
私は確かにそうだと思った。昔は現像しないと結果が分からなかった。多くをイメージして撮影していた。だから、こうするとどうなるか、そこには楽しい世界が広がった。そして実際に試していた。今ではデジタルカメラの液晶にその場で表示される。イメージする努力はいらない。
昔は印画紙に焼き付けた後で大切な写真はスポッティングをした。まず、埃などを消す。被写体が人ならば目の周りなどに黒と白でスポッティングをして美人や美男にした。まさに一枚一枚が手作りだ。昭和初期の写真が残っているようならば、虫眼鏡を使ってスポッティングを探してみると面白いと思う。
フォトコンテストを意識すると、入選する写真と自分の撮ったままの写真を比べる。あからさまに自分の写真はコントラストが低い。だから画像編集ソフトでコントラストを上げて彩色で楽しむ写真とした。でもこれは表面的な鮮やかさで、また誰もができることで、そこにオリジナル性はない。
フォトコンテストを抜きで写真を作品として考えるならば、真似のできない自分なりのアプローチを確立しないといけない。しかし、それはデジタルでは可能なのだろうかと悩んでしまう。
フィルム時代よりも気軽に撮影できるデジタルカメラ。高性能化により、昔では撮影できない暗がりや超望遠での撮影、そして高速連写が可能となっている。立派な道具に任せて撮っていると、そこにオリジナル性を見出すのは難しいかも知れない。でも、メッセージを乗せることはできると思う。しかし、作品ってそこまで追求するのが作品なんだと気がつかされる。
これらは押しつけるのではなくて、そうなんだと知って自分がどう考えるかが重要だけど、この話を聞いて写真の山がまた高くなってしまった。私の写真に対する思いは永遠に結論は出そうにない。
今日はその時に話した内容について少し触れてみる。
#私は自前のノートパソコンを広げて、今まで撮影した野鳥の写真をいっぱい見せている。
最近の写真はコントラストの高い写真が増えた。昔だと考えられないコントラストだ。これは液晶テレビや放送局も悪い。あり得ない色を作り上げている。まだブラウン管の方が自然だ。
山陰は山陰の色がある。(私の写真に限らず)どの写真も地中海で撮影したような色だ。
作品を目指すならば、何を生かすか、そこに自分のオリジナルをどのように取り入れて創るのかを考えないといけない。
#あるモノトーンの写真集を私に見せながら、その人は言った。
「これはどう?芯があるところと柔らかいところ、凄いでしょ。これはね、牛の○○○と墨でスポッティングをした写真。多くの材料で試した結果だそうだよ」
レンズの前玉を外して撮影するとか、昔は何でもやっていた。今は誰も試さなくなった。買ってきてそのまま撮影。そして画像編集ソフトで同じ様に編集する。
私は確かにそうだと思った。昔は現像しないと結果が分からなかった。多くをイメージして撮影していた。だから、こうするとどうなるか、そこには楽しい世界が広がった。そして実際に試していた。今ではデジタルカメラの液晶にその場で表示される。イメージする努力はいらない。
昔は印画紙に焼き付けた後で大切な写真はスポッティングをした。まず、埃などを消す。被写体が人ならば目の周りなどに黒と白でスポッティングをして美人や美男にした。まさに一枚一枚が手作りだ。昭和初期の写真が残っているようならば、虫眼鏡を使ってスポッティングを探してみると面白いと思う。
フォトコンテストを意識すると、入選する写真と自分の撮ったままの写真を比べる。あからさまに自分の写真はコントラストが低い。だから画像編集ソフトでコントラストを上げて彩色で楽しむ写真とした。でもこれは表面的な鮮やかさで、また誰もができることで、そこにオリジナル性はない。
フォトコンテストを抜きで写真を作品として考えるならば、真似のできない自分なりのアプローチを確立しないといけない。しかし、それはデジタルでは可能なのだろうかと悩んでしまう。
フィルム時代よりも気軽に撮影できるデジタルカメラ。高性能化により、昔では撮影できない暗がりや超望遠での撮影、そして高速連写が可能となっている。立派な道具に任せて撮っていると、そこにオリジナル性を見出すのは難しいかも知れない。でも、メッセージを乗せることはできると思う。しかし、作品ってそこまで追求するのが作品なんだと気がつかされる。
これらは押しつけるのではなくて、そうなんだと知って自分がどう考えるかが重要だけど、この話を聞いて写真の山がまた高くなってしまった。私の写真に対する思いは永遠に結論は出そうにない。
2010年3月2日火曜日
フォトコンで一席を取ったので
休みの日、中学からお付き合いのあるカメラ屋さんへ行ってみた。
中学からお付き合いのあるカメラ屋さんと言っても高校を卒業してからは行っていない。せっかくお世話になったのに縁がそこで止まっているのはもったいない。何かの切っ掛けがあればと思っていたのだが、雑誌に載ったのでこれを機会にと行くことにした。
久しぶりに行くカメラ屋さん。学生の時はチャリンコに乗って良く寄ったものだ。カメラ屋さんに入ると、そこには必ずその人は居た。そしていつも笑顔で暖かく迎えてくれた。
その当時、中学生の私に懲りもなく毎回1時間以上のカメラ談義。今さらながら気がつく、そのありがたみ。私の話し方はその人から勉強をさせてもらったと思っても良い。
そんな記憶を思い出しながら、私は車で向かった。お店に入ると少し老けたその人は記憶の通りにそこで待っていた。きっと、その人も私を見てそう思ったのに違いない。
そして記憶をトレースする感じでカメラ談義が始まった。昔と違う点はカウンター越しの立ち話でない点。丸テーブルと椅子に座ってのカメラ談義だ。
相変わらずな受け身的な会話と肯定的でもあるが、筋の通る考え方を主張して情報を提供する話方。それは昔のままだ。
時間の経つのは早い。カメラに関する、いや写真に関する考え方を2時間ほど述べあって別れた。そのあたりも昔と同じ。そして別れる時に店の外まで出てきてお別れをしてくれた。昔はいつも寄っていたので、こんな別れ方はしなかった。店の中だ。嬉しくもあったが少し寂しさを感じて車に乗った。
自宅に帰ってから「お店」って何だろうと考え始める。このテーマ、今まで真剣に考えたことがなかった。今ある多くのお店はそんなことを考えさせない。モノ中心のお店だ。それは当たり前であるけれど、本来はお店って人と人が接するところではないか。その為にはお店の人っていつも待っていないといけない。
そして、来る人に合わせて知識や技術を身につけないといけない。その裏付けとしての商品。この知識や技術が足らないと、お店の価値は価格だけになる。今の不景気、価格勝負は重要だけれど、お店の価値と考えるとそこに本質がある気がする。
その分野で情報共有できる場。それが私の好きなお店のあり方だと思える。私がゲームソフトを作る機会を与えてくれたお店もそうだ。情報共有のために年代を超えて人が集まった。その結果としてゲームソフトが作れた。売れた。
ただ、今はインターネットもあるし価格勝負にもなっている。お店の価値を情報共有だと言っても、単純に売上げに結びつくとは思えない。そこには商売をする人のオリジナルな、今風の考え方が必要だろう。
中学からお付き合いのあるカメラ屋さんと言っても高校を卒業してからは行っていない。せっかくお世話になったのに縁がそこで止まっているのはもったいない。何かの切っ掛けがあればと思っていたのだが、雑誌に載ったのでこれを機会にと行くことにした。
久しぶりに行くカメラ屋さん。学生の時はチャリンコに乗って良く寄ったものだ。カメラ屋さんに入ると、そこには必ずその人は居た。そしていつも笑顔で暖かく迎えてくれた。
その当時、中学生の私に懲りもなく毎回1時間以上のカメラ談義。今さらながら気がつく、そのありがたみ。私の話し方はその人から勉強をさせてもらったと思っても良い。
そんな記憶を思い出しながら、私は車で向かった。お店に入ると少し老けたその人は記憶の通りにそこで待っていた。きっと、その人も私を見てそう思ったのに違いない。
そして記憶をトレースする感じでカメラ談義が始まった。昔と違う点はカウンター越しの立ち話でない点。丸テーブルと椅子に座ってのカメラ談義だ。
相変わらずな受け身的な会話と肯定的でもあるが、筋の通る考え方を主張して情報を提供する話方。それは昔のままだ。
時間の経つのは早い。カメラに関する、いや写真に関する考え方を2時間ほど述べあって別れた。そのあたりも昔と同じ。そして別れる時に店の外まで出てきてお別れをしてくれた。昔はいつも寄っていたので、こんな別れ方はしなかった。店の中だ。嬉しくもあったが少し寂しさを感じて車に乗った。
自宅に帰ってから「お店」って何だろうと考え始める。このテーマ、今まで真剣に考えたことがなかった。今ある多くのお店はそんなことを考えさせない。モノ中心のお店だ。それは当たり前であるけれど、本来はお店って人と人が接するところではないか。その為にはお店の人っていつも待っていないといけない。
そして、来る人に合わせて知識や技術を身につけないといけない。その裏付けとしての商品。この知識や技術が足らないと、お店の価値は価格だけになる。今の不景気、価格勝負は重要だけれど、お店の価値と考えるとそこに本質がある気がする。
その分野で情報共有できる場。それが私の好きなお店のあり方だと思える。私がゲームソフトを作る機会を与えてくれたお店もそうだ。情報共有のために年代を超えて人が集まった。その結果としてゲームソフトが作れた。売れた。
ただ、今はインターネットもあるし価格勝負にもなっている。お店の価値を情報共有だと言っても、単純に売上げに結びつくとは思えない。そこには商売をする人のオリジナルな、今風の考え方が必要だろう。
2010年3月1日月曜日
日野川の関が工事中?
去年、鷺やコチドリや鵜などを撮影した日野川の関へ、先日行ってみると何やら工事中でした。
どんな工事をするのか気になりますね。少なくとも去年と同じ写真は撮れそうもありません。今までよりも野鳥が集まりやすい環境になることを期待するだけです。
撮影:Canon EOS 50D EF50mmF1.4USM
どんな工事をするのか気になりますね。少なくとも去年と同じ写真は撮れそうもありません。今までよりも野鳥が集まりやすい環境になることを期待するだけです。
撮影:Canon EOS 50D EF50mmF1.4USM
安来の白鳥ロードにて
昨日、松江のタンチョウが居なくなった事を確認した後に、安来の白鳥ロードへ白鳥を見に行きました。
まだ、白鳥がいっぱい居ます。何となく嬉しいです。こんな思いは初めてですね。
近づくと警戒します。でも、しばらく居ると安心して食べ始めます。しかし、落ち穂は無さそう。そろそろ北帰行が近い。
北帰行の前に記念写真。たくさん食べて無事に北帰行してね。そして冬になったら戻ろうね。
撮影:Canon EOS 50D TAMRON SP 17-35mm F2.8-F4,EF300mm F2.8L USM,EXTENDER EF2X
まだ、白鳥がいっぱい居ます。何となく嬉しいです。こんな思いは初めてですね。
近づくと警戒します。でも、しばらく居ると安心して食べ始めます。しかし、落ち穂は無さそう。そろそろ北帰行が近い。
北帰行の前に記念写真。たくさん食べて無事に北帰行してね。そして冬になったら戻ろうね。
撮影:Canon EOS 50D TAMRON SP 17-35mm F2.8-F4,EF300mm F2.8L USM,EXTENDER EF2X
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